最期まで家で暮らす、ということ
2020-06-10


『病院で死ぬということ』という本が出たのは、もう30年も前のことだそうです。

映画にもなって、大好きな岸辺一徳さんが主演でした。

「病院で死ぬ」ことが当たり前だったころ。

介護保険制度ができる10年前のことです。

 

著者の山崎章郎(ふみお)先生は、小平市にあるホスピスに長くお勤めになった後、

2005年に在宅介護の拠点「ケアタウン小平」を作られました。

父がお世話になったのは、開所されてから二年ほどたったころのことです。

 

横浜で癌の闘病生活を続けていた父が

山崎先生にお世話になりたいというので、

小平に住むところを探しました。

取り急ぎ見つけたマンションは、玉川上水のすぐ近く。

南に大きな窓があって、

目の前に上水沿いの木々を見下ろし、空が大きく広がって、

ちょっと、ここはヨーロッパかな?と思ってしまいそうな眺め。

小さなころから空が飛びたかった私にとっては、最高のところでした。

当時私は国分寺に住んでいたので、

自転車で片道20分足らずで行き来できるのも利点でした。


手続きの日、帰ってゆく両親を国分寺駅で見送りました。

にこにこと手を振る姿を見ながら、

これからはここが二人の生活圏になるのだな、と

嬉しさに思わずじ〜んとしたのを覚えています。

 

ところが。

翌々日、父は倒れました。

横浜の大きな病院に入院したので、

毎日のように横浜へ通う日々が始まりました。

肺炎を起こし、導尿の管からお通じが漏れ…

そのまま,最期までそこに居るしかなさそうな病態が続き、

ぎりぎりの選択を迫られました。

 

でも。

不思議な偶然が次々と重なり、

父は、医療用のタクシーで、点滴をしながら寝たまま小平までやってきました。

そしてそこで、最後の3か月を過ごしたのです。


 

もっとああすればよかった…と思うことは、いくつもあります。

人間の力には限りがあるのだから、

どんなにベストを尽くしても、後悔は付きものなのだとも思います。

 

でも在宅を選択したこと自体は、本当に良かったと思っています。

一緒に居ながら、家族が普通にしていられますし、

病院では、具合が悪くなった時に

看護師さんを待ちながらやきもきすることもしょっちゅうでしたが、

家なら、やり方は教わっているので、すぐに自分で対処できます。

対処できないときには連絡すれば看護師さんが駆けつけて下さるので、

安心感もありました。

 

父は、家族に囲まれて、旅立っていきました。

 


あれから13年。

そのころから認知症の症状を示していた母が、

骨折し、車椅子の必要な状態になって、

もうすぐリハビリ病院から退院してきます。

 

父の時とは違って、きっと長丁場になるでしょう。


どのような状態であれ、できる限り自然に、

家族の時を重ねていければいいのです。

 

お互いに、楽しい時間にしたいと思っています。


禺画像]
     裏高尾、日陰沢の渓流。できればいつか、母を連れていきたいです。
[Azのひとりごと]
[忘れていく母との暮らし]

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